〇登場人物紹介
黒島よしのぶ
いつも黒色ベースの服装に黒縁眼鏡を基本装備とした渋み溢れる人物。大学の先生らしく、近くのカフェでコーヒー片手に哲学書を読んでいることが多い。
★碧山アカリ
趣味で哲学、文学、心理学といった人文書を読み漁っているお姉さん。黒髪セミロングに切れ目とクールな見た目だが、困っている人を見ると放っておけない性格。
★川崎こうへい
アカリの隣の家に住む中学生。学校や両親との関係などなど年相応の悩みをもっており、アカリが良き相談相手になっている。
藤山リカ
社会人一年目の新卒。やや神経質だったり社会人一年目であったりと、悩みが絶えない。カフェで偶然知り合った黒島先生によく相談ごとをもちかける。
★マークは今回のストーリーで登場する人物
〇自由意志なき喜び(ストーリー編)
川崎「そろそろ試験前だし、勉強しないと! とりあえず、ゲームを少しやってからにしよう」
10分後
川崎「後、10分したら勉強開始しよう!」
更に20分後
川崎「!? 気づいたら、30分も経ってる!? 早く勉強しないと!」
5分後
川崎「小腹が空いた… コンビニに行こう…」
翌日
川崎「結局、コンビニに行って、お菓子沢山食べて、睡魔がきて寝てしまった… 勉強時間たったの5分… 僕ってこんな意志の弱い人間だったけ!?」
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川崎「ということで、意志を強くする方法を教えてください」
碧山「意志を強くする方法ねー それを考える前にまず、「自由な意志」が本当にあるのかどうかを突き止めるべきじゃないかしら?」
川崎「え? 「自由な意志」があるのか、ないのかを考えろってこと!?…自由意志がないなんてことあり得るの!?」
碧山「あり得る話ね 自由意志がないという立場を取っている代表的な哲学者は、バルーフ・デ・スピノザで、主著の『エチカ』でその話が展開されているわ」
川崎「どんな感じの話がされてるの?」
碧山「まず『エチカ』第一部でスピノザが言いたいのは、この世の一切は「神」であるという話ね」
川崎「……ん? 神? この世の一切が?」
碧山「ここで言われているスピノザの神を人格神だと捉えないことがまず重要よ スピノザはこの神を全ての「原因そのもの」と言ってるの だから分かりやすく「神」とは「自然(法則)」そのものね 「神、即、自然」なんて言い方も流布してるわ」
川崎「つまり、「この世の一切は自然現象である」的な主張をしてるってこと?」
碧山「その通り そう言い直してあげると、変な話には聞こえないでしょ? 例えば、虹という自然現象は、雨という自然現象によって生じて、その雨は、熱によって海や川が蒸発して雲を作って生じる…って感じに、身の周りは自然現象だらけよ そしてその自然現象は、自由な意志で生じているのでなく、自然な法則、つまり因果関係で生じているに過ぎないわけね」
川崎「つまり、人間も自然ってこと? だから、自由意志がない?」
碧山「えぇ、「一切」が「神=自然」のプロセスだから、人間も当然その自然の一部に過ぎないわ だから、勉強を後回しにしてしまうのは、あなたの意志が弱いとかじゃなくて、そういう因果関係の波にいたからに過ぎないわ」
川崎「あぁぁ、じゃあ、仕方なかったのか… ちょっと「自分は意志が弱い人間」って落ち込んでたから慰めにはなったよ」
碧山「スピノザ哲学は、まさにその点に意義があるわね 「自由な意志でどうにかできる!」っていうアプローチに対して、徹底的に距離を取るわ これは、「依存症」の問題にうまく転用できる話でもあるの 例えば、アルコール依存症の人に「強い意志で禁酒しろ」と言っても自由意志がないと考えてるから無駄な手法なのよ」
川崎「たしかに! スピノザ的に考えるなら、辞めたくても辞めらない原因の連鎖に巻き込まれてしまっているってことだもんね?」
碧山「飲み込みが早いわね まさにその通りで、こういった「意志」と「依存症」の問題にもうまくアプローチしているのが、最近文庫化された國分功一郎さんの『中動態の世界 意志と責任の考古学』って本ね 気になったら、こっちも読んでみるといいわ」
川崎「実際に、そんな本が出てるんだね! でも、この主張って慰めになったり、意志に基づくひどい根性論的な話から距離は取れるけど、実際どうしたらいいの? つまり、それでも勉強しなくていいってことにはならないし、依存症の人もずっとそのままでいていいわけじゃないでしょ?」
碧山「そのとおりね まず以下の引用を見てみましょう」
「感情はそれと反対の、かつそれより強力な感情によってでなければ抑制も除去もされない。」
スピノザ『エチカ』、岩波書店、2023、202頁、引用(『スピノザ全集Ⅲ』)
碧山「つまり、自由意志でどうこうしようとするんじゃなくて、例えば、勉強をサボりたいという感情と反対の勉強がしたいという強力な感情をどうにかして持ってこないとダメってことね」
川崎「えー… でも、自由意志がないのに、そんな強力な感情をどうやって持ってくればいいの?」
碧山「難しい問題ね でも、『エチカ』を参照するに「受動」と「能動」が重要になってきそうだわ」
川崎「「受動」と「能動」?」
碧山「「受動」っていうのは、原因が分からず感情の奴隷になってしまい、為すすべが何もない状態になっていくこと 対して、「能動」は、物事の「原因を理解」することで感情の奴隷から脱し、自らを保つ力が維持できている状態を指しているわ だから、ポイントは「原因理解」ね」
川崎「原因の理解か… そういえば、昨日ゲームしちゃったのは、クラスの友達とそのゲームについて楽しく喋ったからかもしれない… あと、お腹が空いてコンビニに行っちゃったのは、いつもよりも夜ご飯を食べるのが早かったからかも!」
碧山「今、勉強を怠ってしまった原因を理解して、少し元気になったでしょ? その原因を理解したら、また別の因果の波が形成される、受動の状態から能動の状態に転じたとも見れるわ 例えば、今日は早めに晩御飯を食べるということを辞めて、もう一度勉強を頑張ってみようと思えてるんじゃない?」
川崎「うん! ゲームの話も今日はしなかったから、なんだかやれる気がする!」
碧山「「自分の意志が弱かった」って落ち込んでた状態からは程遠い状態ね もし落ち込んでる状態が続いてたなら、勉強する意欲なんて到底起きるはずもないわ だから、まずは「原因の理解」、スピノザの言葉で言い直すなら、「十全な認識」を行うことが重要事項よ」
川崎「最初、「自由意志がない」って、暗い話だと思ってたけど全然そんなことなくてびっくりしたよ!」
碧山「一見、「自由意志がない」という主張は悲しいことに思えるけど、他方でスピノザは、喜びという感情を何よりも重視した哲学者でもあるの 結構、悪くない哲学思想でしょ?」
〈つづく〉
〇プチ解説
スピノザはユダヤ人ですが、彼の唱える神の観念がユダヤ教徒のなかで受け入れられず、最終的に破門にされてしまいます。また、彼は、善と悪の捉え方も独特で、それは初めからあるものでなく、人間が後から作り出したものであり、我々にとってプラスになるものを善、我々にマイナスになるものを悪と呼んでいるに過ぎないと言います。その善悪の捉え方に基づき、喜びを善に、悲しみを悪とし、喜びの感情を促進して、悲しみを避けることに重きをおく彼独自の哲学思想が構築されました。
参考文献
スピノザ著 上野修訳『エチカ』、岩波書店、2023(『スピノザ全集Ⅲ』)
上野修著『哲学者達のワンダーランド』、NHK出版、2024
國分功一郎著『スピノザ 読む人の肖像』、岩波新書、2022
河井徳治『哲学概説書シリーズⅡ スピノザ『エチカ』、晃洋書房、2023