古典を読むというのは、考えてみれば不思議な行為である。
新しい知識が欲しいなら、新しい本を読めばいい。ネット検索してもいいし、いまならAIに尋ねることもできる。そのほうが、はるかに速く、効率もいい。
生き急ぐ人にとって、古典はむしろ厄介な存在だ。
難解な言い回し。
抽象的な議論。
異なる価値観や前提。
すぐには答えをくれず、こちらの足を何度も止める。けれど、その「立ち止まらせること」が、古典の本領のようにも思う。
なんとなく日々を過ごしていると、人は自分のいる世界を疑わない。
社会の常識、慣習。
働き方、生き方、考え方。
いつの間にか、日常の景色が「当たり前」へ。やがて「正解」になっていく。
魚は、水の中にいるあいだ、水を意識しない。人間も、それに似ている。今という水に浸かっている限り、今を直視することは難しい。古典は、ほんのひととき、水の外へと連れ出す。今の自分の顔を、今の自分の世界を、そっと映し出す。
「ああ、自分はこんなふうに生きていたのか」
そう気づくだけで、息がしやすくなる。
分かりやすく、速く、整えられている世界。日に日に都合よく、カスタマイズされていく。
古典は、そこに異物として侵入する。全身を揺さぶり、目を覚まそうとする。
今日も、本を閉じて、顔を上げてみた。
ずいぶん遠くまで行っていたらしい。
